第28回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2012年
第17回入賞作品

佳作

「母との約束」 上野 美子(72歳 主婦)

 看護師の勤務をしている間に三十四歳になっていた。結婚をしたいと思っていたが、男性と巡り会える機会も逸してしまった。思い切って大手町の結婚相談所へ登録をする。高学歴、高所得、美男子を選んで登録の書類を捲った。
 お見合いをした小学校の教師にダンスへ誘われた。経験のない私は、リズムに乗れず踊れないのだ。その方は、断わってきた。
 不動産経営の方は、両家の母親達も気に入ってくれ、話も進んだ。背が高く好青年であった。(この人と食卓を囲んで自由に箸が運べるだろうか。気取った食事はままならない)と考えた。申し訳なかったがお断りした。
 条件より人間性だろうと考えた。その時に面談をした人は、中学時代に父を亡くし、高校へは行けず、大検の資格だった。仕事は、製薬会社の検査検体を運送していた。四十歳。六人兄妹の長男で母親と同居をしている。収入は私の方が多い。彼の魅力は、温厚で優しさが漲ることで、お付き合いを始めると、早く会いたいという気持ちになっていた。一緒にいると安心感があり、難しい話題もない。
「結婚もしたいけれど学校へも行きたいので迷っている」と、彼が気持を伝えてきた。「両方されたらどうですか」と伝えると、彼は結婚と受験の両方を選んだ。
 真夏のある日、冷房設備のない彼の車で軽沢へ出掛けた。林を出て林に入り、星野教会を散策する。彼が急に言った。「この教会で式を挙げよう」。相手が望むならばと、十一月の挙式を予約した。
 母は、「美子ちゃん、結納金は?」と聞いた。結納金はない。式の費用も折半である。「辛く嫌なこともあるでしょうが、直に帰ってこないで我慢も努力もしてね」。普段は、指示の言葉を使わない母が一言いった。
 式も終わり、千葉で義母と一緒に三人の生活が始まった。休暇も終わり、二人で早朝に家を出て東京へ通う日が始まった。片道二時間を用するので帰宅も遅い。
 働き出して二日目。彼は既に帰宅していて玄関へ迎えに出てくれた。私は扉を開けるや顔面が蒼白になり血の気が引いた。彼の頭がツルツルなのだ。ふさふさした髪は鬘だった。
 翌日、二人で出勤はしたが、夕方になると帰宅する気持になれなかった。友達に泊めてもらった。その日の翌日は、出勤を終えた後、渋々と彼の所へ帰った。彼も義母も、前夜に帰宅しなかったことを話題にはしなかった。実家からも何の音沙汰もなかった。
 彼は、受験をして四月から夜間大学へ通い出した。良く勉強をしていた。五月の連休は私一人で茅ヶ崎の実家へ出掛けた。
 弟と二人になる時間があった。「帰らない日があったの?」と聞いてきた。「鬘だったので、ショックが大きかった。でもね、母の一言で家には帰れなかったのよ」。あの日、彼は、実家に連絡をしたそうだ。
 夏、彼と二人で実家へ遊びに行った。私は妊娠をしていたので留守番をしていたが、彼と弟は茅ヶ崎海岸へ海水浴に出掛けた。彼は鬘を取って泳ぎ出したが、弟は驚くこともなく二人で烏帽子岩まで泳いだそうだ。
 夫の鬘の手入は入念であった。大変な仕事である。私も娘も、夫の鬘の手入は、日常的なことに思えてきていた。
 夫は、夜間大学を首席で卒業した。証券会社に勤務も変えた。優しさと温和なところはお見合をした時と変わらない。今日まで喧嘩をしたこともない。有り難いと思っている。
 母の一言で、あの時、実家に戻らなかったことに、いまは感謝している。
 定年を過ぎた夫は、鬘を使わなくなった。七十九歳の彼は、帽子屋によく出掛ける。帽子の数が増えてきたが、身嗜みのよさには感心している。
 現在、夫と一緒に穏やかな生活をしているが、母の一言を守ってよかったなといつも思うのである。