第24回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2016年
第21回入賞作品

佳作

闇さん 髙橋 公仁(50歳 老人ホーム施設長)

 闇さんは「やみさん」ではなく、「くらがりさん」と読む。皆は「やみさん」と呼んでいた。認知症が進み、一日中車椅子に座り中空を見つめている。表情はなくまるで暗闇に座り込んでいるみたいだから、「やみさん」。
 彼は週に一度、僕の勤めているデイサービスに、老人ホームから通ってきた。よれよれのジャージで、身の回りの品も薄汚れていた。
 明治生まれにしては体が大きく、介護するのも一苦労で、「勉強になるから」という理由で新人の僕に押し付けられた。
 皆は気づいてないが、闇さんにも光が差すことがある。とくに入浴の時間は穏やかな顔になる。そんな闇さんを見るのが好きだった。
 ある日、彼の背中を流しながらふと、「たまには露天風呂もいいですよね」と言った。施設の風呂は窓もなく息苦しかった。「さくらがみえる、おんせん」
 僕は驚いた。彼の口から意味のある言葉が発せられるのは初めてだった。「そういう温泉に行ったことがあるんですね」と僕は訊ねた。闇さんは大きくうなずいた。「場所を思い出したら、教えてください。一緒に行きましょう」と僕は言った。「やくそく」と闇さんは小さな声で言った。「約束です」と僕は答えた。
 入浴が終わり、闇さんとのやりとりを僕から報告された職員は顔をしかめた。「思い出すのは絶対に無理よ」。別の職員が慰めるように言った。「約束したことを忘れるから、気にすることないわ」。闇さんは車椅子に座って、いつものように中空を見つめていた。
 三日後の朝、デイサービスの前で裸足の闇さんが倒れていた。車椅子も使わず、どうやって老人ホームから移動してきたのか、誰にも分からなかった。
 次の日曜日に病院に見舞いに行った。
 郊外にある豪勢な施設で、ロビーにはバロック音楽が流れ、壁にはわけのわからない抽象画がかけられていた。
 闇さんはチューブにつながれたまま眠っていた。ベッドの周囲には花や果物が盛られた籠が並んでいた。生命維持装置の規則的な電子音が、病室の静けさを強調していた。
 闇さんの脇には仕立ての良いスーツを着た中年の男が立っていた。「長男です」と一礼した。僕も頭を下げた。「私も忙しかったのです」と男は言った。
 僕はうなずいた。うなずくしかなかった。「父はこれを握ったまま倒れていました。心当たりはありませんか?」
 男が僕に手渡したのは、よれよれの日本手ぬぐいだった。広げると木曽のある温泉旅館の名前が印刷してあった。
 迷ったが、闇さんと交わした約束について打ち明けた。手ぬぐいを僕に見せるために抜け出したのならば、僕の責任でもあると。「子供の頃、父と行ったことがあります。露天風呂からは満開の山桜が見えました」と男は静かに言うと、窓の外を見た。
 楠の椋鳥がとまっていた。男はしばらく鳥を見ていた。鳥は何も語らず、灰色の空へと飛び立った。「未来がないところに、約束はない」と男は自分の掌を広げて見た。血がついていないことを確認するかのように。「私は父となんの約束もしていません。なにひとつです。父の未来を信じていなかったからでしょう」
 男は闇さんの手を握った。「温かい」
 そして言った。「父が快復したら、一緒に温泉に行きませんか」「約束します」と僕は言った。
 病室を出るときに振り返ると、男はかがみこんで闇さんに話しかけていた。その光景がレンブラントの絵画だとすると、タイトルはもちろん、「約束」だ。
 闇さん、しばし休んでいてください。暗闇に陽光が差し、鳥たちが梢に戻ってくるそのときまで。われわれの約束が、あなたの心に届いていていますように。