第24回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2016年
第21回入賞作品

佳作

二人でダンスをいつまでも 岸 和夫(70歳 無職)

 単身赴任、別居、から五年。やっと離婚が成立した。五十八歳で自宅も貯金もなくなり、喪失感は大きかったが、これからは稼いだ分が全て自分の自由になると思うと、借金を完済したような解放感があった。
 持て余した時間と心を埋めるために社交ダンスのサークルに入った。メンバーは男女ともに同世代の人ばかりで、練習後の飲み会でのダンス談義や世間話が生活に潤いをもたらしてくれた。たまに、女性から「ご家族は?」と聞かれることもあったが、「成人した息子が三人います」といつも答えていた。別居中からずっと、異性に対して自分の殻を閉ざし、関心も興味も湧かない精神状態が続いていた。
 ある時、とびきりダンスが上手くて、四十歳前後と覚しき若い女性が仲間入りした。その人から「五年前に主人を亡くして、今は一人なんです」と言われたとき、急にその女性が生身の女として目の前に現われた気がした。聞きもしないのになぜ独身です、と告白したのだろう?ひょっとしたら、自分に気があるのかも、と凍りついていた心の芯に灯がともったような、温かい気持ちになった。
 教えてくれたアドレスにメールを送り、行きつけのジャズクラブに誘った。講釈を垂れようと思っていたのに、詳しいので驚いた。学生時代は競技ダンス部に所属していて、練習中にかかっていた曲が多いと言うのだ。二度目のデートはダンスホールに行った。ワルツもタンゴも、ラテン種目も若々しく、笑顔で踊る姿に惚れてしまった。
 交際を始めて一カ月もしないうちに、自然にプロポーズの言葉が出た。「僕はもうじき還暦だけど、結婚してくれませんか?」
「えーっ。ほんと?うれしいわ。でも、一つだけ条件があるの。私より先に死なない、と約束して」
「そりゃ、無理だな。君はまだ四十八歳でしょ」
「五年前に夫に先立たれたときは、一人残された虚しさから、生きる意味も見失ってしまって……。部屋に閉じこもって、毎日、遺影の前で泣いていたの。あんな思いは二度としたくないから……」
「それは分かるけど。それなら自分より若い人を選ぶべきだよ」
「でも、私には分かるの。あなたはきっと長生きすると思うわ」
「そう言われてもなあ……」
「湯河原のあなたのマンションにサークルの友だちと遊びに行ったとき、朝、クラシックをかけてくれたでしょ。夜はジャズで、朝はクラシックを聞きながらコーヒーを飲むなんて最高!あのとき、あなたといっしょに暮らせたらな、と思ったの」
「うん。音楽の好みも合うしね……」
「母は七十九才で亡くなったの。せめて私がその年になるまでは元気でいて欲しいわ」
「じゃあ九十才までか。うーん。自信ないな……」
「大丈夫よ。あなたなら」
「わかった。努力するよ」
 あれから十年、神社仏閣を訪れるたびに必ずお祈りし、暴飲暴食を慎み、競技ダンスとストレッチに励んできた。毎年、年末になると喪中葉書が十数枚届く。卒寿を過ぎて亡くなった方が過半数を占めることに驚くが、うれしくもある。古希を迎えた今、無理と思った約束もひょっとしたら果せるかも、と少し楽観的になってきた。