第23回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2018年
第23回入賞作品

大賞

「いってらっしゃい」 市井 利依(59歳 会社員)

 もう三十年以上前のこと。彼がはじめて両親に会いに来た時、私は二十歳だった。緊張して挨拶する彼を父は完全に無視。「結婚を前提にお付き合いさせて下さい」と正座して言う彼に父は「ドロボウ」と言った。でも消防士で武道を長くやっていることと、彼の一生懸命さはかなり父の好みだったようで、3時間後には、2人で酔っぱらっていた。
 結婚式の打ち合わせの帰り、彼が真顔で言った「ちょっとお茶しよう。結婚前に言っておきたいことがあるから。」あらたまって何だろう?と思いながら車に乗ると、ラジオから当時ヒットしていた「関白宣言」がタイムリーに流れてきた。ラジオから次々と違う曲が流れても、私の頭の中では同じフレーズがループで流れていた。♪お前に言っておきたいことがある♪
 そのころの喫茶店は最近のカフェのようにオシャレではなく、テーブルはインベーダーゲームで、怪しいおみくじのくっついた灰皿や、小さなナッツの自動販売機がガチャガチャと置かれていた。コーヒーを注文し、彼が私の目を見て話をはじめた。「結婚したら、何があっても、どんなにケンカしても朝は 『いってらっしゃい』と笑顔で送り出してほしい。俺は絶対に『いってきます』と笑顔で出かける。朝家を出たら、お互いに何があるかわからない。笑顔で送ってもらって、笑顔で出かける。家族が増えてもずっとだ。これは我が家の約束だからな。」彼の話を聞きながら私は泣きそうになった。
 彼は消防士だった。数か月前に先輩が勤務中に脳溢血で倒れてそのまま亡くなった。お通夜の夜、奥様が「喧嘩したまま出かけてそのまま逝っちゃった。最後に見た顔はお互いに怒った顔で…」と泣いておられたと彼から聞いていた。「毎日笑顔で『いってらっしゃい』と送り出すね。子供ができたら家族みんなでそうしようね。約束する。」私は言った。
 結婚して4年、ハンコで押したように彼にそっくりな男の子が産まれた。彼は毎日仕事から急いで帰宅し、息子と一緒に遊び、一緒にお昼寝するのを楽しみにしていた。私はこの3人の幸せな暮らしがいつまでも続くと思っていた。
 息子が8ヶ月になった2月の寒い日、彼は友達と久しぶりにバイクで出かけた。その日の朝もマンションの廊下で息子を抱き「いってらっしゃい」と私は笑顔で言った。「いってきます」と彼は笑顔で手を振り出かけた。その日、夕食の支度をしていると彼の友人から電話があった。「事故で…救命センターに運ばれた。急いで来てほしい。」病院に向かう時も、意識のない彼に話かけていた時も、お通夜もお葬式も雪が降っていた。彼は笑顔で出かけたまま帰らなかった。
 息子と実家に戻り、仕事と子育てに夢中であっと言う間に時間は過ぎた。息子は幼稚園でもケンカばかりして、私はあちこちにお詫びに行った。中学も高校も何度も学校から呼び出しがあった。反抗期には何を言っても 「うるさい!」と怒鳴り、暴れて天井に穴をあけたこともあった。でも「いってらっしゃい!」と言うと「いってきます」と言って出かけた。大人になっても相変わらずやんちゃな息子に、母親はまだまだ気が休まらない。
 息子は父親の顔を覚えていない。父親が生きた年齢をとっくに追い越した。泣きたい時が何度もあった。言葉も想いも息子に届かずどうしていいかわからない時もあった。でもどんな時も「いってらっしゃい」と言うと、怖い顔のままでも「いってきます」と息子は言う。息子のそんな様子がなんだか可笑しくて送り出した後、よく泣きながら笑った。
 主人は悲しい時も乗り越えられるように、母子がバラバラにならないように「我が家の約束」を残してくれたのかもしれない。
 今日も息子は「いってきます」と笑顔で出かけた。「いってらっしゃい」