第24回 約束(プロミス)エッセー大賞

過去の受賞作品

2019年
第24回入賞作品

佳作

仕舞われていた約束 眞壁 哲也(60歳 薬剤師)

 偶然がもたらした不思議な経験だった。
 三十一歳の時、勤めていたドラックチェーンから独立して自分の店を持つ決心をしたのは、バブルが崩壊し不景気に向かって行く時期だった。妻と子供二人。大切な家族を守っていけるか不安もあったが「きっと成功して見せる」という根拠のない自信で妻を説得して、小さな薬局をスタートさせた。
 下着さえ買えない状態が続いた。休みも取れず子供たちに寂しい思いもさせた。
 一番苦しかった時に「五十歳まで頑張ったら、店を精算して海外旅行に行こう」と約束し、仕事と家庭の両立に苦しんでいる妻を責めるように仕事場に駆り出した。
 自分が手を抜けば、その分は相手の苦労になる。逆に自分が頑張れば相手が楽になる。妻とはお互いにそう思って毎日を乗り切る戦友のような関係になっていた。
 下の子が中学生になり、妻が少し仕事に比重を移せるようになった頃から、やっと経営が軌道に乗りだしたが、適度な状態を通り過ぎ二人とも仕事に忙殺される毎日になった。
 大晦日まで仕事をして、正月に店を開ける日に妻が高熱を出した。二人分の仕事をこなしていた三日目、心が折れそうになった時、妻が連絡も無くやって来た。まだ熱のある赤い顔をして、荒い息遣いで懸命に働く姿を見て、自分の中で何かが切れた。『家族の幸せのために頑張っているつもりでいたが、家族を苦しめているだけではないだろうか』浮かんだ疑問が心に刺さり、仕事に対する意欲が急激にしぼんでしまった。
 まさにその時電話が鳴った。独立するまで同僚で、その会社の社長になっていた人物からだった。
 「どうしているのかと思って」彼の言葉が天の声に思え、私はその電話で経営の譲渡を申し出た。彼は少し驚いていたが、直ぐに担当者を送って詳しい状況を聞いてくれた。
 相手が指定してきた譲渡日は、偶然にも私の五十歳の誕生日の二日後だった。妻が高熱を押して働く姿を見なければ、忙しさで自分の年を数える事も無く働いていたに違いない。
 独立する時も何も言わずに付いてきてくれた妻は、譲渡の時も何も言わなかった。
 今度は私が約束を果たす番だった。
 譲渡後も親会社の社員として働くことが条件になっていたので、海外旅行に行くために二週間だけ休暇をもらった。指定された休暇の日程でトルコ旅行を申し込んでいたが、ツアー会社から催行中止の連絡が入り、同じ日程で行けるツアーはカナダしかないと告げられた。突然の行き先変更に戸惑ったが、気持ちを入れ替えて急いでカナダを調べた。
 その頃「世界遺産」という雑誌を定期購入して本棚に収めていた。早速探し出して二人で見ていると、妻が急に「私、世界遺産の本を一冊別の所にしまってある」と言いだした。話を聞くと、「海外旅行に連れて行く」と言った私の約束を信じて、「本が届くと目を通していたら、素敵な景色があったので『こんな所に行けたらいいな』と思い、本棚に仕舞わずに、仕事が辛く感じた時に見ていた。もう十五年以上も前の事だから忘れていた」との事だった。引き出しの奥から探し出した本はなんと『カナダ』で、「この写真」と言って私に見せたのは、『シャトーレイクルイーズから撮ったルイーズ湖』の写真だった。改めてツアーの日程を見ると、そのホテルに泊まる予定になっている。二人ともあまりの偶然に顔を見合わせ、直ぐに電話で申し込んだ。
 ホテルに泊まった朝、まだ暗いうちに湖畔に立った。湖は夜明け前の闇を溶かし込んでいるかのように暗く沈んでいたが、朝日が昇るにつれその色を微妙に変化させ、写真と同じ綺麗なブルーになっていった。まるで自分たちの人生と重なるようだった。気が付くと妻は泣いていた。声を出して泣いていた。私も涙が溢れてきて妻の肩を抱き寄せていた。
 仕舞われていた約束の瞬間だった。