2024年
第29回入賞作品
佳作
おもかる言霊 藤本 直美(60歳 介護職)
父は、出ない声を振り絞り私に電話をくれた。映画やドラマで何度も使われ、思いを託す時に言う言葉、
「後はよろしく頼む」
父の心配は、残される母の事だった。私は父の願いを受け止めようと、「大丈夫だから。任せて」と返事をした。
父が亡くなり一人暮らしの不安を口にしていた母のため、そして私自身の生活を変えるために長く住んだ京都を離れた。末娘と共に、母と同居することにした。母は、娘と孫が一緒に住んでくれると言って喜んだ。
六年前の母の日常は、老人施設へボランティアに行き、週二回は自宅を開放して体操教室を開催していた。毎日誰かが訪問し、季節ごとに食べきるのが大変なくらいの野菜が届いた。明るい元気な人で、私と買い物や旅行に行った。
それがコロナ禍を迎え、人の出入りが全くなくなった頃から、日に日に様子が変わってきた。人の悪口を言い、物がなくなれば私と娘に盗まれたと言った。満腹が分からず、食べ続ける。
認知症だった。
介護の仕事を二十年以上している私は、
「認知症の対応は慣れている。何とかなる」
と楽観的な自信があった。
しかし、仕事で認知症の利用者さんと一、二時間関わるのと、親の介護をすることは全く違っていた。「受容と共感」が介護の基本だが、二十四時間許容することは、すぐに困難になった。
父から買ってもらった自慢の宝石を騙されて売ってしまった。悪口ばかりを聞かされていた人達は来なくなった。野菜は届かず、父の田舎から届いていた米も送られてこなくなった。財布の札を切り刻み、小銭を庭に埋めるのでお金も私の管理とした。母が問題行動を起こすたびに、物を隠す毎日になった。
「一緒にやろうね、一緒に行こうね」と言っても腕を組んで睨みつけてくる。母にとって私は頼りになる娘から、全てを否定する邪魔者になった。
母はよく食べ、体力があり、杖なしで歩くことができる。夜間の徘徊があり安心して寝ていられない私の睡眠時間は減った。それでも私は仕事を続けている。ずっと一緒にいれば、私のイライラが増すだけだった。
父は母が認知症になる事をわかっていたのだろうか。
「後はよろしく頼む」父が振り絞って伝えた言葉が、私の責任感を支えていた。「私はお父さんと約束したのだから、最期までお母さんの面倒をみる」と。
滋賀県の娘に子どもが生まれた。埼玉からは遠く、母のこともありすぐには駆けつけられなかったため、旦那さんのご両親に任せた。
「お任せして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「できることしかできまへんわ。私のできることだけ精一杯やらせてもらいますぅ」明るいご両親の言葉で安心すると、その一言がすっと私に入ってきた。
できることだけしかできない。
当たり前のことなのに、気付けなかった。そうだ、他の誰かを頼ってみよう。娘や息子に愚痴を聞いてもらおう。と思っただけで、楽になった。父の言葉に縛られ過ぎて、交わした約束を負担にしか思えなくなっていた。
父は「みんなで楽しく暮らせよ」そんなことを言いたかったのかもしれない。
母が家で過ごせる時間ももう短いだろう。
「おとうさん。おかあさんには、おかあさんの時間の中で幸せに暮らせるように考えるね。私は楽しく生きるよう自分の生活を考えていいよね」言葉の捉え方を変えたら母に少し優しくなれて、母にも少し笑顔が戻ってきた。