第30回 約束(プロミス)エッセー大賞

受賞作品

2025年
第30回入賞作品

優秀賞

ケーキを焼くとは言ってない 神田 和士(41歳 会社員)

「今日のケーキ、楽しみだな」
 長かった仕事の山場を越え、久しぶりの休日。ごろごろしていると、小学校に上がったばかりの息子が呟いた。目をやると、お気に入りのミニカーとたわむれている。誰に言ったでもない、ただの呟きに見えた。
 だが、ケーキとは? 食べる前提のような言い方だった。妻が買ってくる約束でもしたのか。だとしたら、なぜ? はて、なにかいいことでもあったか。ふと、カレンダーを見る。
 結婚記念日か、そうか。胸の内だけでつぶやいて、息子に視線を戻す。それから、カレンダーを二度見した。
 結婚記念日か、そうか!
 そんな声が出たような気もするし、それどころですらなかったような気もする。とにかく、そうだ、結婚記念日だ。忙しさのあまり、完全に忘れていた!
 次の瞬間、頭をフル回転。仕事の繁忙期でも、これほどの瞬発力は出ない。状況を一瞬で整理する。結婚記念日の恒例行事、手作りケーキ。冷蔵庫の材料、なし。体力気力、連日の激務でゼロ。時刻、午後一時半。まだおやつに間に合う。間に合う……のか?
 立ち上がる。妻が首を傾げてこちらを見た。いや、何も言うまい。妻は気を遣っている。疲れている私と一緒にケーキを焼き、そして食べたいとなど、言うはずがないのだ。ならば、私も黙してただ動くのみ。それが私の生き方だ。
「ちょっと出かけてくる」
 とだけ言って、ふらりと――を装って、出かけた。重い体に鞭打って自転車にまたがり、向かう先は地元のスーパー。普段買わないバラ売りのブランド卵、乳脂肪分四十三%の上等な生クリーム、それと妻の大好きな苺。買い込んで、家に戻る。
 妻の驚いた顔を見ながら、悠然とハンドミキサーを取り出す。卵を手早くボウルに割って、ミキサーで泡立て――ようとしたが、ミキサーが回らない。最大出力でも、指でねじるより遅い。
「今ちょっと調子悪いんだよね」
 妻が呟く。もっと早く言ってくれ! 時計を見る。午後二時。家電量販店は遠い。行っている時間はない。私はしばし愕然とした後、決然と泡立て器を手に取った。そう、腕力はすべてを解決する。腕力なら、おれの出番だ。
 猛烈に泡立てる。卵三個。学生時代の自己ベストは卵七個、直径三十五センチのケーキを焼いたときに樹立したものだ。この程度、造作もない――いや、無理だ。もう若くない。ただでさえ残り体力ゼロなのだ。右腕が悲鳴を上げる。左手に持ち替えた。左腕も、すぐに動かなくなる。
 妻よ息子よ。知っての通り、お父ちゃんはやると言ったらやる男だ。だが思い出してみてくれ。結婚記念日にケーキを焼くとは言ってない。恒例行事になってはいたけれど、焼くとは言っていないのだ。なら、焼かなくてもいいのでは?
 が、息子がそれを言葉にしてしまった。それほど楽しみにしていたのだ。これはもう、言ったようなもの。約束したようなものだ。だから、焼く。今にも引きつりそうな右腕を酷使し、泡立てる!
 ……できた。完璧なメレンゲ。卵黄と小麦粉を投入、型に流し込み、オーブンに放り込む。やり切った……いや、まだ終わっていない。生クリーム。まだこいつがいる。ボウルに流し込む。泡立てる。右腕がまたも焼けついた。左手に持ち替える気力もない。
 妻よ息子よ。何も手作りケーキにこだわる必要はあるまい? 買ってきたケーキで十分じゃないか。ほら、その方がおいしいよきっと。
 だが、二人ともこのケーキが大好きだ。甘さ控えめ、クリーム多め。これは店では買えない。だから、作る。うおおおおっ、と声すら上げ、泡立てる!
 ……できた。完璧なツノの立つ生クリーム。やり切ったぞ。妻よ、あとは託すぞ――
 こうして今年も最高のケーキができた。
「おいしい!」「おいしいね」
 妻と息子の笑顔も、最高だ。この笑顔のために、毎日頑張る。誰にも言わない、おれだけの約束だ。今日も頑張っただろ。なあ?